近日公開


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大野木工の歩み

 1.大野村「一人一芸の村づくり」のスタート

夏のヤマセ(太平洋からの冷たい濃霧)の影響を受けるため、脆弱な農業生産力しか持たない岩手の寒村・大野村。かつて村人の生活は、主に出稼ぎに頼らざるをえませんでした。
昭和30年から40年代の村の出稼ぎ者数は、1,000~1,500人とも云われ、村の男たちは一年を通して北海道や関東地方に仕事を求めて出かけていきました。
結婚しても妻や子供と一緒に暮らせない・・・。村の中で家族一緒に生活を送りたい、そんな村の若者たちの切実な思いを受けて、工業デザイナーの秋岡芳夫氏(当時・東北工業大学教授)から、地域の資源(人・技・もの・自然・風土等)を生かしたモノづくり「一人一芸の村づくり」の提唱がなされました。
1980年(昭和55年)、村人を挙げての学習の場として、春夏秋冬のシーズンを通した「キャンパス80」を開催し、豊かな山村文化の復興とモノづくり産業の構築による生活の活路を夢見て「一人一芸の村づくり」のスタートを切りました。

 2.大野木工の誕生

 キャンパス80での学習を通じて、村の女たちは自分たちの暮らしの中からのモノづくりの再発見と基幹産業の酪農資源を活用したチーズ・バター・アイスクリーム等の乳製品加工や食肉加工製品の新たな開発に取り組みました。
 男たちは「村の山林にはたくさんの雑木がある・・・。千人を超す出稼ぎ大工の技がある・・・。」の秋岡先生の呼びかけに共鳴し、若者たちは、村に在住してくれた日本有数の木工ろくろ師、時松辰夫氏(現大分県・由布市湯布院町アトリエときデザイン研究所所長)の指導のもと、日夜を惜しんで「木工ロクロ」の技術習得に励みました。

 こうして地元の山林資源を素材とした、木工品「大野木工」が誕生しました。
 大野木工は、「美しい木目」と「木の温もり」を生かし、普段の「生活の道具」として使用してもらえる、強い塗装技術の工夫(プリポリマー含浸法等)が特徴とされ、職人たちの「手づくり」のこだわりと「本ものの良さ」から、「温もりある工芸品」として全国に高い評価を得ていくこととなりました。

3.学校給食器への導入

 大野木工が全国に知られるきっかけとなったもう一つの理由は、「地域の素材を生かし、地域の人が作ったものを、地域の暮らしに生かす」自作自用のモノづくり理念から、最初に完成した木工食器を、村内の子供たちの「学校給食器」として導入したことです。このことは、工業製品の氾濫の中で、山村の豊かな生活文化の提案として全国に大きな反響を与え、やがて各地で地場産業を生かした学校給食器の導入の試みが展開されていくこととなりました。
 しかし、学校給食の現場では、作り手の思いもかけないことが起きていました。長年に亘りアルマイト食器と先割れスプーンの金属食器の乱暴な使用に慣れきっていた子供たちは、導入した木工食器を、たった一週間で、ギタギタに傷つけ破損させる結果を引き起こしてしまいました。
 それでも木工職人たちは、壊れた木工食器を黙々と修理し給食現場に返し続けました。その結果、半年後には、「木のものは壊れる。大切に扱うもの・・」という、子供たちの体感意識が芽生え、破損した木工食器が殆ど見られないという状況を生み出すこととなりました。熱さが手に伝わりにくい木工食器は、器を手に持って食べる「和の食事マナー」を子供たちに身につけさせるきっかけとなり、やがて、きちんと器を手に持って食事ができる子供たち、大野のモノづくりに誇りを持つ子供たちの姿を見ることができるようになっていきました。
 このことから、大野木工は社会に優れた工芸品の提案をするだけでなく、木工食器を通じて、子供たちへの「食育」や情操教育など、豊かな暮らし作りに大きく貢献できることを学びました。大野木工は現代社会においてそうした役割を担っていきたいと強く願っています。

4.幼児期への食育と木工食器の提案活動

 特に、大野木工は子供たちの人格形成の観点からも、感受性の豊かな幼児期にこそ「本ものの良さ」や「温もり」を体感しながら、食器を通して、きちんとした食事マナーやモノの大切さ・扱い方を学習させることが重要であると考えております。
 そのために、幼児の手の大きさや食事メニュー等、使う側に立った「幼児給食器」の開発を推進しております。
 現在、大野木工の「幼児給食器」は、岩手県内をはじめ、北海道から沖縄まで全国の幼稚園や保育園で導入されております。大野木工の給食器は、「一人一芸の里・おおの」からの「大野らしさの食育提案」でもあるのです。